東京吉原遊廓

東京市浅草区新吉原京町、角町(すみちょう)、江戸町、揚屋町(あげやまち)、伸之町の五ヶ町の一廓が全部遊廓に成て居る。市内電車は浅草山谷(さんや)、又は下谷龍泉寺で下車した方が便利である。山谷で下車すれば西へ約四丁、龍泉寺(りゅうせんじ)で下車すれば東へ約三丁と云ふ処である。

全国で何千とある遊廓の其の総てが湯女又は飯盛女の進化した者であるが、東京の吉原と京都の島原だけは、最初から遊女屋として開業されたものである。従つて茲の花魁は一段と格式が高い訳で、花魁の事を太夫と云ふのは吉原と島原位なものだらう。最初に遊女屋を開業したのは庄司甚左衛門(しょうじじんざえもん)、又の名を大阪小甚内と云ふ人で、慶長十八年、今より約三百二十年前に今の日木橋芳町へ開業した。其処は淋しい隅田の川岸で、四辺は一面の芳原だつたので名も芳原と命名したと云ふ事である。其後元和三年の火災に逢ひ、直ちに同年三月現在の吉原に移転して今日に至つたものである。庄司甚左衛門は独り吉原の元祖のみで無く、全国数万同業者の総元祖であると口碑には書いてある。奈良は千二百年前であると云ひ、島原は八百年前と称して居るが、何れが真の元祖であるかは判明しない。吉原の現勢としては、引手茶屋が四十五軒、貸座敷業が二百九十五軒、紅唇の娼妓が三千五百六十人働いて居る。震災後の建物は、半永久的な物ではあるが、震前の物に較比べ何れも皆近代味を取入れて、何処も彼処も明るい感じのする純日本式の建方が何よりも悦ばしい傾向である。娼妓の約半分は東京地方の女で、他の過半数は東北地方の女である。制度は写真式であるが、家に依つては店の横手に応接所を装置らへて、客と娼妓とが自由に交渉の出来る様に成つて居る。斯うした店が益々増加して行く傾向のある事は事実である。登楼してからの制度は全部廻し制で、所謂東京式と云ふ方法である。而して遊興に甲乙二種の等級がある。甲(白劵)乙(青劵)で、甲は二時間四円、乙は二時間二円と云ふ事になつて居る。尤も小店では一円五十銭でも遊ばしては居るらしい。此の他には四時間、全夜、全昼等の別があるのだが、店に依つて多少の相違は免れない。大店でも四時間は五六円、全夜全昼で七八円と云ふ事であり、小店の四時間は二三円、全夜全昼で三四円と云ふ処である。料理其他は、特に注文しない限りは一切通さない事に成つて居る。で右は全部遊興税を含めての勘定であるから面倒は無い。通し物を取れば二割は楼主の手数料として掛けられる事に成つて居る。次に引手茶屋と云ふ事に就いて一寸説明を試み度い。右に云つた事は、客が直接楼へ登つた場合の事であるが、もし引手茶屋から貸座敷へ繰込むとすれば、茶屋の席料は取らないが、案内料として一円取られる。外に台の物に対して三割五分が茶屋の収入に成つて居る。東京の引手茶屋へは芸妓は呼べるけれども娼妓は呼べない。娼妓を揚げるには何うしても貸座敷へ行かねばならない。案内料と云ふのは、茶屋から貸座敷へ案内する其手数料の事である。処で茶屋から妓楼へ送り込んだ客の勘定は、総て茶屋が責任を持つ事に成つて居るので、茶屋としては決して振りの客は取らない事になつて居る。従つて引手茶屋へ揚るには旅館か知人の照介が必要である。廓内には芸妓が大小約百五十人程居るから、茶屋でなくとも貸座敷の方へ直接芸妓を呼ぶ事も出来る。芸妓は二時間一座敷として、玉、祝儀、箱代共で約四円である。角海老楼、稲本楼、大文字楼、不二楼の四軒は、馴染客以外は引手茶屋から行つた以外のふりの客は揚げない事に成つては居るが事実はふりの客でも揚げて居る。中店は河内楼、蓬莱楼、三河楼、彦多楼、成八幡、君津楼、辰稲弁等である。

附近の名所としては浅草公園があり観音堂がある。妓楼は、

京町一丁目

京町二丁目

角町

江戸町二丁目

江戸町一丁目

揚屋町

の二百九十五軒である。