品川町宿場

品川町宿場は東京府荏原郡品川町字本宿に在つて、市電は品川終点、省線は東海道線品川駅から南へ約五丁、何れへ下車しても他の乗物へ乗る程の距離は無い。

昔東海道へ旅立をする人があれば、見送り人と共に茲で飲んで別れたものださうだ。見送りに来て遊女屋へ泊り込んで終ふ者や、旅費を皆茲で費ひ込んで、旅行が出来なく成つた者等もあつた程で、昔は随分と盛つたものらしく、又花魁の質も今よりは一段も二段も上だつたに相違無い。「品川で口がすべると愚僧なり」と云ふ古川柳がある様に、旧幕時代の上顧客は芝山内近傍の坊さん達だつた。明治維新の志士等も可成茲へは出入りしたものらしく、「品川は薩摩ばがりの下駄の音」等と云ふ川柳も残つて居る程だ。慶長六年に宿場の旅籠屋渡世が飯盛女を置き出した事が茲の花街の濫觴で、遂ひに徳川幕府の初期頃に、千住板橋等と共に遊女を置く事が許可されたもので、歴史としては可成古い方である。延享年間の全盛時代には五十二軒の妓楼があつたが、一時淋れて半数程に成り、明治に成ってから再び盛り返して、現在では貸座敷が四十三軒あり、娼妓は四百名居る。福島県三重県等の女が多い。島崎(しまざき)、土蔵相模、片山楼、榎本楼、大百足楼等の御湯屋式の老舗に登楼ると、流石に二三百年も以前から続いて来た家丈けあつて、廊下や柱等は黒光りがして居り、天井は煤けて黒く障子の棧の角が摺れて丸味を帯びて居たりする処等は、誠が古色蒼然たる感じがして、一種のなつかし味を感ぜしめられる。店は写真店で、娼妓は居稼ぎ制で、遊興は廻し花制だ。費用は小店最低が一円五十銭、二円三円四円と云ふ所で、四円からは本部屋である。中店の最低が二円、本部屋は五円からだ。大店では最低三四円で本部屋は八九円と云ふ所だ。簡単な台の物が附く。他は全部台の物が附がない。右は全部宵から一泊が出来るのだ。芸妓の玉祝一時間二円四十銭、妓楼は、