神奈川県の部

川崎遊廓

神奈川県川崎市南町に在つて、東海道線川崎駅下車、東南へ約拾丁の地点に在る遊廓である。遊廓の傍には京浜電車の停留場もあり、又乗合自動車の便もある。

元東海道五十三次中の宿場女郎であつたものが、明治三十七年に現在の遊廓指定地へ移転したものである。震災前迄は張店で娼妓は皆長い煙管を喰へて居たものであるが、今日では全部陰店に成つて終つた。娼妓は居稼制であり、廻し制度であつて、純粋の東京式であるが、御定り甲五円、乙三円五十銭、丙二円五十銭と云ふ組合の規定は、東京よりも寧ろ高価い位であるけれ共、御銚子一本に肴小物が付くので結局安上りかも知れない本部屋の設傭は無く全部廻し部屋計りである。遊興税は一円に付金七銭である。東京及横浜の過剰人口がどし〃川崎に移住して、工場が建ち会社が建ち、忽ちにして市政が施かれる程の大繁昌を来した所謂新興の大市邑である丈けに、遊廓方面も可成り繁華を見せて居る。現在在の人口約十万に対して、貸座敷が拾九軒、娼妓約百九十人は少々過剰の傾向があるにも拘らず、其れを難無くこなし行く処に新興の気鋭が覗はれる。尤も客の二三分通り迄は東京及横浜の好事家であると云ふ噂である。

芸妓を揚ぐれば二時間一座敷金三円である。妓楼は高塚、玉木や、藤や、荒井や、三浦や、常多楼、金波楼、新高楼、吉田楼、新相模、新三浦、森大と楼、金清楼、太田や、勢州楼、三好楼、清勝楼、三日月楼、一力楼の十九軒である。附近には川崎の大師があり鶴見の総持寺があり、花月園がある。

横浜真金町遊廓

横浜真金町遊廓は神奈川県横浜市真金町(まがねちょう)に在つて、東海道横浜駅から東へ約十丁、市電は足曳町(あしびきまち)又は横浜橋で下車する。

横浜は安政年間、幕府と米国全権ハルリス氏とが、最初に通商条約を結んだ地として、永久に忘るゝ事の出来ない地である。其れを永久に記念せんが為めに、野毛山(のげやま)の丘上には井伊掃部頭直弼の銅像が建つて居る。復興の新装成つた大横浜市は真に堂々たるもので、伊勢佐木町及其附近は東京の銀座界隈よりも遥かに善い処がある。人口は既に五十万を数へ、六大都市の一つに数へられて居る。昭和三年の貿易総額は十三億五千万円で、神戸港の次位である。真金町の遊女で、名は忘れたがペルリが入港してから間も無くの事だつたらう。未だ外人の珍らしかつた当時、ある富豪の米人が其の花魁を買ひ度いと申込んだ、けれ共花魁は何うしても応じない。内所では高い金に成る事だから是非出ろとすゝめる。内所には義理がある。さればとて外人の為めに踏みにじらるゝ気には何うしても成れなかつた。其れで彼女は決心した

「露をだに、厭ふやまとの、女郎花 降るアメリカに、袖はぬらさじ」

と云ふ一首を辞世として、大和撫子の最後の気焔を揚げつゝ自殺した遊女が居た。何れにしても開港と真金町とは、甚だ浅からぬ関係に在つたものである事は事実である。目下は貸座敷が五十九軒あつて娼妓は約五百人居るが、福島山形千葉茨城地方の女が多い。店は写真店であり乍ら陰店を張つてゐる。娼妓は居稼ぎ制、遊興は全部廻し花制である。費用は一時間遊びが一円二三十銭、御定りは二円五十銭位で台無し、本部屋は四五円からで台の物付きである。名所としては野毛山、阜頭、三溪園等である。

横浜青木町遊廓

横浜青木町遊廓は神奈川県横浜市青木町(あおきちょう)字反町に在つて、東海道線東神奈川駅から南へ約四丁、市電は只の一丁場だから敢て乗る程の事は無い。

今は横浜市の中に編入されて居るが、昔は青木町辺一帯から、今東神奈川駅のある辺を神奈川宿と云つた処で、五十三次の一だつた。恰度野毛山のふもとに当つて居て、昔は直ぐ傍らで海の波頭が白く砕けて居た処だつた。今の遊廓は此の国道筋の宿場から移転して来たもので、妓楼は目下二十三軒あつて、娼妓は約百七十人程居る。店は写真店であり乍ら陰店を張つて居て、娼妓は全部居稼ぎ制、遊興は全部東京式の廻し花制である。費用は一時間遊びが一円二三十銭位、御定りは二円五十銭位、本部屋は四五円位からである。

横浜保土ヶ谷遊廓

横浜保土ヶ谷遊廓は神奈川県横浜市保土ヶ谷町に在つて、東海道線程ヶ谷駅で下車すれば南へ約五丁の処がある。乗合自動車の便があるから保土ヶ谷橋で下車すれば直ぐである。

茲は昔東海道五十三次の宿場で、広重の絵で世人が善く知つて居る。現在の遊廓は其時代が残した飯盛女の化身である。最近迄は独立した町であつたが、震災後に大横浜市の復興と共に合併して現在に至つたものである。で目下は貸座敷が七軒あつて、娼妓は五十人居る。制度は総て東京式で、店は写真制、娼妓は居稼ぎ制、客は廻し制。と云ふ事に成つて居る。御定りは甲が本部屋へ這入つて台の物附きで五円、乙は廻し部屋で銚子一本附きが二円である。尚税が一円に付七銭宛附加される。勿論此れで一泊が出来る筈だ。芸妓の玉代は二時間一座敷で四円三十銭宛である。娼妓は東京地方及関東地方が多い。妓楼は、東家、第一万金楼、第二万金楼、松芳楼、大松楼、松美楼、塩田楼の七軒である。

横須賀市遊廓

横須賀市遊廓は神奈川県横須賀市柏木田に在つて横須賀線横須賀駅からは約十丁位乗合自動の便もある。

横須賀は呉、舞鶴と同様に海軍の市である。鎮守府、海軍工廠、水雷団、水雷学校、海軍飛行場、等があつて人口は十万を突破して居る。貸座敷も鎮守府の開設と共に出来たもので、云はゞ海軍女郎屋である。私娼の為めに相当大きな地磐を奪はれては居るが、其れでも貸座敷が二十六軒あり、娼妓は百五十人を突破して居ると云ふ豪勢さ。店は写真制と陰店式の両方あつて、娼妓は全部居稼ぎ制。遊興は東京式の廻し制で、費用は最低一円位から四五円程度である。本部屋は四円位からだ。

三崎町北条遊廓

三崎町北条遊廓は神奈川県三浦郡(みうらぐん)三崎町(みさきまち)字北条にあつて、鉄道は横須賀線の横須賀駅で下車するか或は逗子駅(ずしえき)で下車する。三浦半島先端の岬にあるので、駅から下車して西南へ約五里位の処にある。乗合は自動車が定期に運転して居るので不便を感じない。東京より行くには霊岸島(れいがんじま)出帆の東京湾汽船三崎行を利用すれば非常に便利である。気候が温和で肴の非常に豊富な処であるから夏の避暑等には此の地方が非常に繁昌する処である。此の町は漁場のこととて、漁船の出入が多く従つて、昔から船人相手の遊女が沢山居た所である。楼数は総計五軒、娼妓四十四人居て、全部居稼ぎ制である。店は写真制で大概廻し制か一時間制である。御定りは台の物付二円位で席料は八十銭で一時間遊びは一切含みで一円六十銭響ある。此の遊廓の娼妓は大抵大島甚句か三崎甚句の一つ位は唄つて聞かせる所だ。三崎甚句の文句一つ

「三浦三崎は女のよばい、男後生楽寝て暮す」

芸妓も呼べる。玉代一時間一円九十銭位附近には城ヶ島があつて非常に風景の善い所として有名でめる。妓楼は、近江楼、東海楼、金田楼、西宮楼、三国楼の五軒だ。

浦賀遊廓

浦賀遊廓は神奈川県三浦郡浦賀町(うらがまち)に在つて、横須賀線横須賀駅から東へ約二里、横須賀から船で行つても善い。乗合自動車で行つてもよい。

浦賀港は、下田港と共に西洋文明輸入の関門で、文明史上に見逃すべからざる所である浦賀奉行の家敷跡とか、番所とか、大砲台場の址とか、ぺルリ上陸記念碑だとかゞあつてそゞろ幕末当時のあわたゞしさを想像せしめる物がある。遊女屋も其の当時には既に在つたもので、今よりは遥かに殷盛を見せて居たのであつたが、鉄道が敷かれ、横浜が開港されると共に衰微して、今では貸座敷がたつた二軒あるのみで、娼妓も七八人しか居ない。陰店を張つてゐて、娼妓は居稼ぎ制、遊興は廻し制で、費用は御定りは二回で台附、四円からは本部屋である。付近には浦賀ドックがある。茲は私娼の為めに公娼が幾分圧倒されつゝある形だ。

藤沢町廓遊

藤沢町廓遊は神奈川県高座郡藤沢町字辰巳町に在つて、東海道線藤沢駅へ下車して西へ約三丁、乗合自動車もあるが乗る程の必要も無い。

藤沢は、江ノ島鎌倉を遊覧する人々が、省線から片瀬行の電車に乗替へる処だ。町の後には見晴しのよい小山があつて、此処には遊行寺と云ふ有名な寺がある。時宗の総本山で、清浮光寺、又は藤沢道場とも云つて居る。本山の住寺なる大僧上は、常に全国管下の寺院を遍路歴程して歩くので遊行寺の称がある。徳川時代には将軍家から年々五百石宛の扶持を貰つて居た。筑波へ行けば、必らず筑波の遊廓を素見して来るやうに、江ノ島鎌倉への帰途には必らず藤沢へ寄つて、此処の遊廓を素見して行く者が多い。東海道五十三次の一つで、明治十三年には宿場の飯盛女が娼妓に昇格し、明治三十五年には県令に依つて散娼制から、現在の遊廓に移転して集娼制と成つたものである。目下貨座敷が十軒あつて、娼妓は五十人居るが、重に東北地方の女である。店は陰店を張つて居て娼妓は全部居稼ぎ制だ。客の廻しは取つて居る。客の好みに依つては通し花(俗に此地ではシキリと云つて居る)にも応ずる事がある。此の場合には一仕切(全夜)十円である。費用は御定りが酒肴附で二円六十五銭だ。勿論此れで一泊が出来る。一時間遊びは二円である。妓楼には、桂家、岩月楼、松坂楼、三浦楼、月見楼、大和楼、丸家、立花家、橋本楼、辰巳楼等がある。

平塚遊廓

平塚遊廓は神奈川県中郡平塚町字平塚に在つて、東海道本線平塚駅の西北約十丁の地点に在る。乗合自動車豊田道で下車すれば直ぐである。

元来平塚町は、東海道五十三次以来の古い宿場であつて、土地に大きな塚がある事に依つて此の名が起因して居る。元は宿場の飯盛女で、十返舎一九の膝栗毛に愛嬌を漂はした処であるが、最近に遊廓と成つたものである。目下は何処も彼処も写真式か陰店式に成つて終つたのに、而も茲は大東京の玄関に近い処であるにも拘らず、依然として古風な吸付煙草で張店を行なつて居る。目の覚めるやうな御揃ひの裲襠(うちかけ)をひつかけて、ずらりと打ち並んで居る様は可成奇観であつて、微か乍らも大江戸時代の華かさを忍ばされるものがある。現在妓楼は十二軒あつて、娼妓は全部で百二十人居る。本部屋としての設備は無いが本都屋と廻し部屋との中間の様な設備に成つて居る。遊興は総て時間制で全部を引くるめての最低遊興費は一時間一円八十銭で、最高三円五十銭位である。十一時過ぎから翌朝八時頃迄なら五円乃至七円位な物である。芸妓も呼べる。一時間の玉代が六十銭である。娼妓の遊興費は少々高い様に思はれるが、廻しを取らない為いだらう。平塚民謡ホックリ節

「相州平塚(ヨイナ)ツリ〃おいも(ホラエ)

一度帰せば〃又ほれる(ほつくり〃〃ヨワラ火でホックリ十三里)

妓楼は、福岡、新笹、旭、相模、東、平田、京友、武蔵、金鱗、第二松栄、蛭子、第一松栄の十二軒。

大磯町遊廓

大磯町遊廓は神奈川県中郡大磯町(おおいそまち)字大磯に在つて、東海道線大磯駅から東北へ約五丁、乗合自動車は大踏切(おおふみきり)で下車する。賃十銭。

大磯も五十三次の宿場であつたが、其れよりも有名な事は、鎌倉時代に於ける唯一の花柳界であつた事だ。西鶴物や、鎌倉時代の洒落本等を見ると、鎌倉から熊々大磯迄船で漕ぎ附けたものらしい。あの時代が恐らく大磯の全盛期だつたらふ。遊廓の近傍の虎子堂には曾我兄弟の木像があり、延台寺には虎子石と云ふのがあつて、十郎が虎の家に泊つた夜工藤祐経の問者が十郎を射殺す為めに射つた矢が此石に当つて十郎は無事だつた。石に矢の跡が残つて居る。尚名所としては照ヶ崎海水浴場、千畳敷、鴫立沢等がある。鴫立沢(しぎたつさわ)は西行法師の歌で有名に成つた処だ。目下貨座敷は、柳川楼、和涯楼、糀や楼の三軒しか無く、昔全盛時代の面影は其の片鱗だも見出せない。娼妓は八人居るが東京府茨城県の女計りだ。店は陰店を張つて居て、娼妓は全部居稼ぎ制、遊興眼時間制で廻しは取らない。経費は一時間一円八十銭、引け過ぎからの一泊は五円三十銭である。台の物は附かない。芸妓も居ない。本部屋も無い。

小田原初音新地

小田原初音新地は神奈川県小田原町初音新地にあつて、熱海線小田原駅で下車すれば約三丁位の東方にある。駅から乗合自動車及市外自動車の便があつて、五 人乗で約五十銭位である。昔は東海道筋に散在して居たのであるが、明治卅六年現在の場所に移転して一廓を成したもので、現在では娼楼六軒娼妓約五十人位居る。箱根が目先にあるので箱根の帰り路に一寸足を止めるのも一興のある事と思ふ。制度は写真制もあるが、古風な陰店制もあるので面白い。遊びも時間制と廻し制とある。遊興費は税金席料一切含みで泊りが三円五十銭位から六七円位迄で又二時間遊びは一円五十銭である。芸妓を呼ぶ事も出来玉代は一時間大小一組で一円五十銭である。付近には小田原評定で有名な小田原城址がある。妓楼は伊呂波楼、加納楼、菊本楼、松本楼、宝来楼、金昌楼の六軒。

吉野町吉野遊廓

吉野町吉野遊廓は神奈川県津久井郡吉野町(よしのまち)字吉野に在つて、中央線与瀬駅で下車すれば西へ約一里の処に位して居る。乗合自動車の便があつて、大房商店前で下車すれば宜しい。賃五十銭。

吉野は甲州街道の古い宿場で、安政四年時分には旅館兼遊女屋が十八軒もあつて、町も相当に繁華したものであるが、鉄道が開設され次いで明治三十六年には現在の個処に遊廓と成つて移転してからは急に淋れて、現在では貸座敷がたつた三軒に減少し、娼妓も十三人しか居なく成つた。店は陰店で、娼妓は居稼ぎ制である。送り込みはやらない。遊興は廻し制で時間制では無い。本都屋と云ふ設備も無い。御定りは台付二円五十銭で税も此の中に含んで居る。芸妓を呼べば一時間玉代が一円五十銭である。娼妓は神奈川県東京府等の女が多い。妓楼は柴田楼、常磐楼、中山楼の三軒である。