青森県の部

八戸遊廓

八戸遊廓は青森県八戸町にあつて、東北本線、尻の内(しりのうち)から分岐する八戸線に乗替へ八戸駅で下車する八戸遊廓は隣接町の小中野町及び鮫の遊廓とを以て八戸遊廓と俗に言はれて居るのである。小中野町遊廓に行くには、八戸町の中央で自動車に乗るか(賃二十銭)汽車で「陸奥湊駅」に下車するか。「片道八銭」で湊駅から廓までは約五丁である。安政の頃大平洋沿岸を航行する小廻り船が小中野添ひの湊川港に碇泊した時、船夫達の衣類を洗濯したり、身の廻りの世話をしたりした洗濯女で私娼と変り、それが濫觴となって出来た遊廓である。現在貸座敷数約三九軒、娼妓は約百六十人位居る、主に陰店制であり、客引番頭等も居ないので非常に簡単である。御定り三円三十銭酒肴或は茶菓附で客の意の儘である。遊興は全部廻し制で通し花は取らない。特有の情緒と言ふものもないが、特に無駄使ひせぬ様に勉めること、それが八戸女の真実味がある処だ。

県社「三八城(みやぎ)神社」があり丘上の眺望脚下に万傾の水川を踏んで西北の空には遠く八甲田、十和田の諸峰及松が崎一帯の松林、之に続く洋洋たる青海を望む風光は絶佳である。鮫の遊廓は風光明媚の地として特に親しい情調がある。八戸地方の海上門戸として殷盛を極めた土地だ相である。小中野代表的妓楼は曙、輪島楼、花月楼等である。

三本木町遊廓

三本木町遊廓は青森県三本木町(さんぼんぎまち)新地にあって、東北線古間木駅で十和田鉄道に乗換へ三本木駅で下車する。

貸座敷は現在三軒、娼妓約十七人位居り多くは近県人で遊興は東京式廻し制である。店は陰店を張つてゐる。御定りは三円、二円五十銭とあって酒肴附である。芸妓も呼べる。玉代一時間一円位、二時間以上は一時間八十銭の割、十和田湖へは西方へ約四里位である。

五戸町遊廓

五戸町遊廓は青森県三戸郡五戸町(ごのへまち)にあつて、汽車では東北本線十和田鉄道に依るのが一番近い。即ち古間木駅で十和川鉄道に乗換へ、三本木駅へ下車すれば南方へ約三里五丁の地点にあつて、馬車或は自動車の便がある。

東北線から十和田湖に行く人は此の五戸を通過せねばならぬ、五戸から戸来(とらい)迄は三里二十八町十和田湖迄は戸来から三里半位である。現在貸座敷数は四軒、娼妓は約二十人位居て陰店を張つてゐる。御定り三円五十銭位が甲で、乙は二円五十銭位である。娼妓は居稼ぎ制で、客の廻しは取つてゐる。短時間なら一円二十銭位でも遊べるらしい。山国情調が遺憾なく現われ出て居る。

野辺地遊廓

野辺地遊廓は青森県上北郡野辺地町(のべじまち)に在って、東北本線野辺地駅で下車すれば北へ約三丁の地点に当って居る。乗合自動車の便があって、金沢山口屋前で下車すれば宜い。此の町は陸奥湾に面した港町で、明治維新前迄は、南部藩唯一の港だつたので、町も繁華で此の方面の盛り場も非当な殷賑を極めたものであるが、明治四十三年に現在の個所へ移転して遊廓と成ってからは、幾分淋れた感じがある。宿場として散財して居た当時には十二三軒あったものが、現在では九軒に減って居る。娼妓は全部で三十人居るが、青森県秋田方面の女が多い。入江の波は静かで人々は純朴であるから、都会人の避暑地には宜い処である。茲の遊廓は大体が東京式で居稼ぎ制、勿論廻し制を採って居る。店丈けは写真制を廃して陰店で客を呼んで居る。御定りは三円二十銭で甲も乙も無い。従って本部屋も無い訳である。御定りには御銚子一本に小物が附くけれども、其れ以上は別勘定に成る税は遊興費の一割。貸座敷に芸妓も呼べるが、一時間目は一円で、二時間目からは八十銭宛の割である。

民謠「十府のすが蓆、織るなら広く 主とふたりですわるよに」

妓楼は、大万楼、旭楼、恵比寿楼、満月楼、柏楼、大黒楼、霞月楼、来盛楼、いろは楼等である。

田名辺町遊廓

田名辺町遊廓は青森県田名辺町にあつて東北線野辺地駅で大湊線に乗換へ、田名部駅で下車する。

現在遊廓貸座敷数約三軒、娼妓は十五人位居て、店は陰店制、遊興は東京式廻し制である。御定りは三円、二円とあって、酒肴附である。娼妓は近県人多く愛嬌と義侠で評判だと聞いて居る。右で一泊も可能だ。

大湊町遊廓

大湊町遊廓は青森県下北郡大湊町にあつて、鉄道は東北線野辺地で乗換へ、大湊線に依つて、大湊駅ヘ下車する。大湊は海軍の要港で、下北牛島の第一の名邑である。遊廓の貸座敷数約十軒、娼妓は約三十人位居る。店は陰店制であり、遊興は東京式廻し制である。御定りは酒肴付二円五十銭、茶菓附なら二円五十銭、二円位でも遊興が出来る。短時間なら一円位でも遊べるらしい。

七戸町遊廓

七戸町遊廓は青森県七戸町にあつて、汽車は東北本線「野辺地」下車、南方へ約五里半、又十和田鉄道へ古間木から乗換へ三本木駅へ下車すれば北方約二里半位の地点にある。

現在妓楼約三軒、娼妓約十五人位居て、重に近県人である。遊興は東京式廻し制である御定り三円五十銭、本都屋酒肴附三円及二円五十銭とある。即ち最低は二円五十銭と言ふ事になる。茶菓附なら一円四五十銭位で一泊も出来る。

三戸遊廓

三戸遊廓は青森県三戸郡三戸町字留崎にあつて、汽車は東北本線三戸駅へ下車し留崎町迄人力又は自動車の便がある。現在貸座敷数は三軒、娼妓約十八人位居て、陰店制であつて、遊興は時間制でなく、廻し制度になつて居る。御定りは本部屋酒肴附四円、又三円、二円五十銭の等級がある。短時間遊びなら一円位でも揚げるらしい。

青森市旭町遊廓

青森市旭町遊廓は青森県青森市旭町(あさひまち)に在つて、東北線又は奥羽線青森駅で下車して南へ約十丁の個処に在る。

青森は本州最北の都会で開港場であり、北海道への連絡船が出る。県庁があり、兵営があり、善知鳥(うたふ)神社があり、合浦(がっぽ)公園があり妙見堂がある。寛永以前には善知鳥と云ふ一魚村に通ぎなかつたが、藩主津軽信牧公が築港してからと云ふものは隆々として繁昌し、忽ちにして今日の大を成すに至つたものである。明治四十三年五月三日の青森大火に旧柳原遊廓も全滅したので、間も無く現在の地に移転して今日に至つたものである。目下貸座敷が二十一軒あつて娼妓は百四人居るが、何れも青森、秋田県地方の女が多い。店は写真式と陰店式とを併用して居る。娼妓は全部居稼ぎ制である。客は廻し制で通し花は取らない費用は六円、五円、四円、三円の四通りあつて、何れも台物が附いて居る。税は一割。本部屋は無い。青森の遊廓丈けでは、女中其他へは一切祝儀や心付けを与へる必要は無い、。彼等は総て給料制度に成つて居るので、祝儀は絶対に受けない申合せをして居るのだ。貸座敷には、角海老、若松、開金、大金、大(おほすみ)、政岡支店、富美代、金森、松明、第二松明、一六、喜楽、宝来、長谷川、青港、福太、政岡、大桝(だいます)、第三-六、福島、松葉等がある。

里謠じよんから節「ハアー外ヶ浜なる青森港、北は松前樺太迄も、出船入船絶えまなく、ハアー海の青森繁華な青森、汽車は東北奥羽の出所、客の乗り降り東北一」芸妓の玉代は二時間一座敷二円。

弘前市寿町(或は北横町)遊廓

弘前市寿町(或は北横町)遊廓は青森県弘前市寿町にあつて、奥羽線弘前駅へ下車し代官町を北へ、和徳町を抜けて右へ折れると北横町(きたよこまち)の遊廓へ出る。

此の遊廓は明治初年頃から明治二十年位迄は元寺町(もとてらまち)の鉄砲小路にあつて、銘酒屋の様な小見世が三四軒あつたばかりであつたが、二十年頃から土淵川に沿ふた、土場町(どばのまち)へ移転し今の様な形を整へてからは、妓楼も十軒ばかりに増加した。同三十年には現在の地に移転したもので、兵営が置かれてから急速の発展をした遊廓である。現在遊廓の貸座敷数は約二十四軒、娼妓約百二十人位居る。女は近県人が多い。店は陰店制及写真制とあつて、遊びは東京式廻し制度になつて居る。妓娼は勿論居稼ぎ制だ。御定りは六円が最高で会席菓子付である。甲は五円、乙四円、丙三円三十銭と言ふ事になつて居る。「寿町(ことぶきまち)」「北横町」と二個所にわかれ、寿町には三軒北横町には中見世、小見世合せて約二十軒位ある。各々気分も多少は異つて居るが此寿町の方は近来発展をして、美人も相当多いと云ふ評判だ。

附近には苹果園が多く林檎の名物、市の北には岩木山(いわきやま)があつて津軽富士の称がある。駅前を真直ぐ行けば古の鷹ヶ丘城址があつて、天守閣や物見櫓等が残存してゐるので、昔を偲ばせるには充分である。岩木山神社(国幣小社)は市から西へ三里半、楼門、神楽殿、惣黒塗鍍金の金具を打つた中門(ちゅうもん)、総朱塗の拝殿、唐門等は燦然として、俗に奥日光の称がある。津軽氏の経営に係るもので多くは特別保護建造物となつて居る。代表的な妓楼としては寿町では「武蔵楼」、北横町では「あけぼの」が有名だ。

黒石町遊廓

黒石町遊廓は青森県南津軽郡黒石町(くろいしまち)にあって奥羽線川部駅で、黒石町に乗換へ、黒石駅で下車する。

現在遊楼数約三軒、娼妓約十五人位居る。青森秋田県人が多い。遊興は廻し制だ。御定り甲は四円で本部屋、会席及玉代一切に酒肴附である。又三円二円位の等級もある。

深浦遊廓

深浦遊廓は青森県西津軽郡深浦町に在って、目下鉄道の架設中であるから、奥羽本線川部駅で五所川原線に乗換へ、終点の鰺ヶ沢駅へ下車し、南方へ約五里の地点にある。遊廓の貨座敷数約三軒、娼妓約十五六人居り青森秋田県の女が多い。茲の娼妓は比較的侠心に富んで居る相だ。遊興は東京式廻し制であるが、せせっこましい処がない。御定りは三円と二円とあって、一泊酒肴附である。

鯵ヶ沢町遊廓

鯵ヶ沢町遊廓は青森県西津軽郡鯵ヶ沢町字新地に在って、五所ヶ原鯵ヶ沢駅から西へ約十五丁、乗合自動車の便がある。

鯵ヶ沢は津軽藩発祥の地で、旧藩時代には津軽唯一の商港だった。従って遊廓も三百年の古い歴史を持つて居る。現に妓楼として三百年以上を経過して、今尚営業を続けて居る中村楼主は、十二代の直系である。目下貸座敷は六軒あって、娼妓は三十五人居る。店は陰店を張って居て、遊興は廻し制、費用は御定り甲四円、乙三円、丙二円五十銭で台の物が附く、娼妓は青森県秋田県の女が多い。本部屋は無い。妓楼は、中村楼、長親楼、一二三楼、西港楼、丸海老楼、高砂楼等がある。