静岡県の部

御殿場

御殿場は静岡県駿東郡御殿場町(ごてんばまち)字御殿場に在つて、東海道線御殿場駅で下車すれば約二十丁の処で乗合自動車の便がある。

御殿場町は、御殿場口及須走口から富士に登山する人々の下車する駅である事は何人も知らぬ人は無い。茲は東海道線の最高地帯で、駅の処が既に海抜一千四百九十八尺である。其れ故夏は非常に涼しいので、近年避暑地として相当人に知られる様に成つて来た。三国一の富士山も、茲が最も雄大な姿を現はす処とされて居る。恐らく貸座敷の中で、寝乍ら富士を眺め得らるゝのは茲位なものだらう。茲には貸座敷が、「鈴吉楼」一軒しが無いので宿場に成つて居る。明治二十九年に創業した家で、娼妓が五人居る。店は陰店で、遊興は東京式廻ししを取つて居る。御定りは甲三円、乙二円、丙一円五十銭此の中には税を含んで居る。別に本部屋 と云ふ設備は無い。

三島中島遊廓

三島中島遊廓は静岡県田方郡(たがたぐん)三島町字中島にあつて、東海道線の三島駅で駿豆線に乗換ヘ、広小路駅で下車するのが便利である。駅から西方ヘ約五丁、乗合自動車の便がある。附近には官幣大社三島神社があつて、箱庭の様な富士山が後方に巍然として聳えて居るので、誠に景色のよい処である。妓楼の軒数は五軒、娼妓は全部で四十五人程居る。制度は写真制で居稼ぎ制度。遊びは全部東京式の廻し制である。遊興には甲乙丙とあつて、甲は五円、乙は三円六十銭、丙は一円八十銭位で、席料或は遊興税等は一切此の中に含んでゐる。都合で箱を入れる場合には、玉代一座敷二円八十銭位である。

三島女郎衆の化粧の水」妓楼は、稲妻楼、尾張楼、万字楼、井桁楼、新喜楼、の五軒である。

沼津市縁新地遊廓

沼津市縁新地遊廓は静岡県沼津市緑新地に在つて、東海道線沼津駅で下車すれば西南ヘ約十六丁、乗合自動車は「千本入口」又は「幸町新地入口」で下車すれば宜しい賃金は十銭である。

沼津は東海道の勝地で、千本松原、静浦、江浦等があり、殊に富士の眺めが宜しく、御用邸の在る所以も茲にあるのだ。旧水野氏の城下で市も仲々繁華で、避暑避寒地として知られて居る。五十三次時代からの宿場であつたが、現在では立派な遊廓になつて居る。現在貸座敷は六軒あつて娼妓は約六十人居るが、秋田山形県の女が最も多く、次は本県及東京府の女である。店は写真制と陰店制とあつて、娼妓は居稼き制である。客の廻しは取つて居る。費用は御定り二円三十銭で廻し部屋で台は付がぬが、甲は五円四十銭、本部屋で台附きだ。勿論両方共一泊が出来る。妓楼には濃州楼、深本楼、日吉楼、中村楼、花楼、大黒楼等がある。

清水市遊廓

清水市遊廓は静岡県清水市江尻町に在つて、東海道線江尻駅から清水港行の電車に乗り清水港で下車すれば宜しい。

清水は、侠客清水次郎長の居た処で、彼の墓は今梅隠寺に在る。港は茶の輸出が盛んで恐らく日本一だらう。興津、江尻、久能山ヘかけて、東京から一泊の遊覧旅行には持つて来いの処である。清見寺、龍華寺、鉄舟寺、久能山、三保の松原、等、富士を背景として風光がよく、仲々見切れない程見る処がある。目下貸座敷が九軒あつて、娼妓は約四十人程居る。静岡県愛知県、等の女が多い。店は陰店を張つて居て、娼妓は全部居稼ぎ制。遊興は東京式の廻し花制である。好みによつては時間制の通し花も取る事がある。費用は一時間遊は一円五十銭位、廻しの一泊は二円五十銭から四円位、本部屋は四円五十銭位からである。台の物は別だ。

大宮町遊廓

大宮町遊廓は静岡県富士郡大宮町字茨木に在つて、東海道本線富士駅から富士身延鉄道に乗換ヘ、大宮駅で下車する。

大宮は、昔から富士登山の大宮口宿場で、飯盛女も相当に居たものだが、今は貸座敷が三軒しか無い。娼妓も約十人程居るのみだ。附近は養蚕地なので製糸工場が多い。店は陰店で、遊興は時間制と、廻し制とある。費用は一時間遊びが一円七十銭位で、廻しの一泊は二円見当である。台の物は付かない。

吉原町遊廓

吉原町遊廓は静岡県吉原町に在つて、富士身延鉄道吉原駅で下車する。

妓楼はたつた一軒で、娼妓は四五人しか居ない。費用も、制度も、楼名も判明して居ない。

静岡市安部川遊廓

静岡市安部川遊廓は静岡県静岡市安部川町に在つて、揚屋町、仲(なか)の町(ちょう)、上の町の三ケ町が一廓が成つて居る。東海道本線静岡駅より西ヘ約十丁、乗合自動車の便もあつて交通甚だ便利である。乗合賃は金十五銭。外に円タクの設備もある。田圃道のそゞろ歩きも悪くは無い。

静岡市は元駿府と云つて、徳川家康の隠居地であつた。目下県庁の所在地として人口約十万、近在の隣接町村を編入して、近き将来には二十万の大静岡市を形成せんとしつゝある。従つて一時は江戸幕府以上の権力が在つた処丈けに、此の方面も殷盛を極めたもので最も盛大の時は妓楼四十五軒を数ヘた事もあつた。明治初年の火災以後は漸く衰へたりと雖も今尚十三軒の妓楼があり、娼妓百九十人を数ヘて居る。因に茲は家康の鷹匠役伊部加右衛門と云ふ人が、私娼や飯盛女の類を全部現在の安部川町の一廓に集めて、風俗を取締つたと云ふ事に茲の遊廓の因を為して居る。が純粋に遊女屋町と成つたのは、慶長十二年頃からであるらしい。江戸の吉原が本家で静岡の安部川町が分家、斯うした関係は昔からあつたものと見えて、古風なゆかしい年中行事も此の廓内には最近迄あつたのであるが、今は完く其の何物も無く成つて終つた。制度は総て東京式で、店は写真制、居稼ぎ制、廻し制を採つて居る。大店、中店、小店に依つて相場も多少違つて居るし、一本、泊り、仕切、等の区別もあり、又其の中に甲、乙、丙等の階級もある。大店一本(二時間)一円六十銭、二本は二時間以上で此の倍額に成る。此れに祝儀四十銭、小物六十銭が付くので一本の合計金二円六十銭と成る。仕切は昼間朝から夕景迄で約十二円、泊りは約十七円位である。普通は大抵御定りと云ふ遊び方で、点燈から翌朝迄甲六円五十銭、乙四円五十銭、丙三円九十銭で小物や其他一切が附く事に成つて居る。本部屋に這入るには、甲は九十五銭増、乙は七十銭増、丙は五十五銭増である。尚此の外に一時間と云ふのがあつて一円六十五銭である。右は全部遊興税が合算してある筈だ。芸妓の玉代は一時間一円二十銭で、茲には昔から廓音頭と云ふ華かな踊りがある。娼妓は大抵尾張、美濃、伊勢地方の女が多くを占めて居る。妓楼は小松楼、蓬莱楼、喜報楼、初音楼、巴楼、吉田楼、清水楼、江戸楼、若松楼、音羽楼、恵比寿楼、高砂楼、三河楼、の十三軒だ。

附近には由比正雪の墓があり、今は兵営に成つて居るが静岡城址があり、今川義元の首塚等がある。

藤枝町新地

藤枝町新地は静岡県志太郡藤枝町に在つて、東海道線藤枝駅で下車すれば東へ約十丁の位置に在る。駅から町迄は約小半里も距てゝ居るので、藤相鉄道を利用して岡出山で下車する方が便利である。

藤枝町は昔から東海道五十三次中の古い宿場で、茲の遊廓も宿場の飯盛女時代から古い歴史を持つて居る。現在貸座敷が五軒あつて娼妓は全体で三十五人居る。店は陰店式で、写真は出て居ない。娼妓は居稼ぎ制で送り込み制では無い。本部屋は無いが廻しは取つて居る。御定りの甲が三円で乙が一円五十銭である。此れには税も含まれて居るのだ。此れで甲には御銚子が付き、乙には御茶菓子が付くのだから安いものだ。芸妓は此の廓には這入らない。妓楼は、清水楼、伊織楼、山泉楼、長盛楼、千葉楼の五軒。

相良町

相良町は静岡県相良町に在つて、東海道線藤枝駅乗換、藤相鉄道相良駅で下車して南へ約五六丁の個処である。

海岸には御前崎の燈台があつて、一等白色燈が燭光は二十万燭光と称せられ、日本一との称がある。国立茶業試験場も此の町に在る。

貸座敷は宿場に在つて、遊廓には成つて無い。目下同業者は「岡本楼し、「絃波楼しの二軒あつて娼妓は七人居る。県下の女が多い。店は写真制で陰店は張つてない。娼妓は居稼ぎ制で送込みはやらない。客か廻しはかつて居るが本部屋は無い。費用は御定りが一円四十銭で台の物は附かない。仕切制だから上手に遊べば安く遊べる処だ。

島田町遊廓

島田町遊廓は静岡県島田町に在つて、鉄道は東海道線島田駅で下車する。乗合自動車の便がある。

東京方面から行けば大井川の直ぐ手前の駅で、五十三次の一宿だつた。大井川は東海道第一の大河で、日本三急流の一つだ風雨の時等は其の水勢は完く恐ろしい程で、五十三次の時代には直ぐに川止めと成つた事に無理は無い。今は三千二百尺の鉄橋が架つて居て、附近の名所の一つに成つて居る。斯んな具合だつたので、茲と川向ふの金谷とは長雨が降る程客が盛るので、飯盛女達は長雨の都度に喜んだと云ふ事だ。目下は貸座敷が二軒しか無いし、娼妓も八九人しか居ないので、昔の盛つた面影等は夢にも見られない店は陰店を張つて居て、遊興は廻し花制だ。通し花も取る事がある。費用は廻し一泊二円乃至三円で台の物は別計算である。

金谷町遊廓

金谷町遊廓は静岡県金谷町に在つて、東海道本線金谷駅で下車する。

金谷は五十三次の一つで、島田と金谷との間には大井川が凄じい勢で流れて居る。五十三次の時代には、二三日も降雨が続けば直ぐに「川止」と成る。従つて旅人は、川のあく迄は、島田と、金谷とに泊つて待たねばならなかつた。飯盛女の繁昌したのも無理は無い。今は然し淋れて、貸座敷はたつた二軒しか無い。娼妓も僅々七八人居るのみだ。陰店を張つて居て、廻し花制である。費用は一時間遊びが一円六七十銭で、廻し花の一泊は二円二三十銭位である。台の物は付かない。

堀の内遊廓

堀の内遊廓は静岡県堀の内町字堀の内にあつて東海道線堀の内駅で下車し、南方約四丁位の処にある。

妓楼は総計四軒あつて、娼妓は全部で二十五人居り全部居稼ぎ制で。送り込みはやらない。制度は陰店制で全部東京式の廻し制、遊興費は本部屋の設備がないので全部廻し部屋に成つてゐる。一泊が一切含みで四円二十銭(遊興税席料共)二時間遊び三円二十銭一時間遊びは一円七十銭位である。気に入つた娼妓が居なければ娼妓を揚げない代りに席料とし て五十銭払へばよい事に成ってゐる。

此の土地には芸妓は居るが遊廓にはめったに入らぬ様である。妓楼は、金波楼、南海楼、開春楼、松井楼、の四軒だ。

見付町遊廊

見付町遊廊は静岡県磐田郡見付町に在つて、東海道線中泉駅で下車すれは北へ約十五丁の地点である。駅からは電車及乗合自働車の便があつて、何れも十五分とは掛らない。

今でこそ中泉に駅はあるが、昔は見付が東海道の本街道であつた。当時江戸へ上る時は此処で初めて富士の山巓を見付けるので、見付の台と云つたものだと云ふ事だ。此処の遊廊も宿場の飯盛女時代からの建物で、現在貸座敷が三軒、娼妓は二十五人居る。娼妓は重に三重県岐阜県地方の女が多い。店の制度は陰店で写真は出て居ない。娼妓は居稼ぎ制で送り込み制では無い。遊興は客の好みに応じて、時間制もやれば廻し制もやる。先づ廻し 制と思へば間違ひは無い。本部屋の設備等は勿論無い。其の代り又値も安い。御定りが一円五十銭である。芸妓の玉代が一時間一円五十銭で、見付音頭が民謡兼踊と成つて居り、流行唄としては見付行進曲等がある。妓楼は、山千楼、音羽楼、大栄楼、の三軒である。

浜松市二葉遊廊

浜松市二葉遊廊は静岡県浜松市鴨江町に在つて、東海道線浜松駅で下車すれば西へ約十丁の位置である。駅から乗合自動車の便があつて廓大門前で下車すれば宜しい。

浜松市は天龍川と浜名湖の中間に在つて、人口約七万、茶、楽器、浜納豆等の産地である。家康が武田氏と三方ケ原で戦つて、敗戦し、軍を退いたのが市の北端に在る此の浜松城跡であつた。浜松は其の名に相応はしい松の都で、ざゞんざの松、家康鎧掛の松、音羽の松、白山の松、五社の松、御胞衣の松、琴掛の松等の名松がある。大正十一年十一月、現在の遊廓に移転する迄は、昔のままの宿場気分を国道筋に漂はして居たものだつたが、現在では全部写真式の遊廊に改められて終つた。目下貸座敷が二十二軒あつて、娼妓は約三百人居る。此処の組合には面白い規定があつて直接従業者は全部女性でなければならぬ事に成つて居るので、完くの今「女護ヶ島」を形成つて居る事だ。

娼妓は全部居稼ぎ制で送り込みはやらない。客の好みに応じて時間制もやれば廻し制もやつて居る。一時間遊びは甲二円、乙一円八十銭、丙一円六十銭、御定り廻しは一泊三円八十銭、大引は午前二時から一泊廻し無し四円二十銭である。芸妓の玉代は一時間一円四十銭。此処には二葉音頭と云ふ踊りがあつて、娼妓が唄ひ、且つ弾き、且つ踊るのである。

「春の錦を二葉の里に

柳さ〃らの色〃らべ

粹なこゝろの花盛り

よい〃よい〃よいやさ」

「秋はまたよい二葉の廊

月夜からすが来るわいな

今も長者の声がする

よい〃よい〃よいやさ」

妓楼は、豊本楼、宝来楼、西野屋、糀屋、たからや、立花屋、駿河屋、駒屋、古清水、川崎楼、よねや、共栄楼、沢潟屋、島屋、紙屋、米米楼、美奈茂登楼、池田家、古清水支店、大阪楼、金波楼、甲州楼等である。

掛塚町遊廊

掛塚町遊廊は静岡県磐田郡掛塚町字掛塚横町に在つて、東海道浜松駅で下車すれば南へ約二里、中泉駅へ下車、すれば西南へ約二里、掛塚町迄は何れの駅からでも乗合自動車があつて、賃金は各三十銭宛である。掛塚町は天龍川の河口に在つて、明治四十二年迄は帆船が百艘余もあり、荷物の集散が頻繁であつたが、今は鉄道の為めに押されて帆船は一艘も無く成り、転業をする者が多く成つた。漁業、建具業、農業、材木商等が多い。

貸座敷は目下、「吾妻楼、」と、「関村楼」の二軒丈けで、娼妓は十人居る。愛知静岡秋田県等の女が多い。店は陰店を張つて居て、娼妓は居稼ぎもやれば送り込みもやつて居る。 居稼ぎの方は廻し花制である。費用は廻しの方は一泊三円、一時間遊びは一円五十銭で、台の物は何れも附かない。芸妓の玉代は一時間一円四十銭。附近には燈台、海水浴場等がある。

二保町遊廓

二保町遊廓は静岡県磐田郡二保町字吾妻町に在つて、東海道線浜松駅から遠州電鉄に乗換へ、二保駅で下車する。乗合自動車の便があつて賃十銭。

付近の三方ケ原は家康と武田氏とが戦つで家康の初めて敗けた古戦場として有名だ。二保は天龍川の沿岸に在つて、北遠の咽喉を占め、水利の便がよい。当貸座敷は明治九年に許可されたもので、目下妓楼は八軒、娼妓は二十五人居て、静岡県の女が最も多い。店は写真店で、娼妓は全部居稼ぎ制、遊興は廻し制で通し花は取らない、費用は御定りで一泊一円五十銭で台の物は附かない。本部屋は無い。恐らく茲は県下最低廉の遊里だらう。妓楼は、延年楼、小泉楼、宝来楼、金子楼、二見楼、喜楽楼、吾妻楼、京美楼、の八軒