朝鮮地方

朝鮮に行つて居る人々の中には、比較的女性が尠ない。従つて女性が尊まれる。斯うした傾向は独り朝鮮のみでは無く、至る処の殖民地に見る一般的な傾向である。内地に居る時に於てこそ、朝鮮や支那の婦人が珍らしいけれども、暫らく海外に滞在して居ると直ぐに内地の女が恋しく成る。風俗、習慣、言語、体臭、あらゆるものが懐かしく成つて来る。加ふるに比較的数が少ないので、朝鮮人の娼妓よりは内地人の娼妓の方が一二割方値が高い。値は高くとも喜んで需要されて行くと云ふ、内地とは正反対の現象が行はれて居る。総体的に料理店の芸妓が娼妓と変化したものが多いので、朝鮮至る処の遊廓にも二枚鑑札の女が居る。そして何処の遊廓にも共通的に感するものは、殖民地特有のたいはい的な気分の溢れて居る事だ。世界を家として歩く流浪民同志の、醸し出した一種特有の気分であるかも知れない。

釜山牧島遊廓

釜山牧島遊廓は朝鮮釜山府溘仙町に在つて京釜線釜山駅から南ヘ約十丁、市電は南浜入口で下車する。賃五銭釜山は朝鮮全道の閭門で、京城に劣らぬ大都会である。港には朝鮮と内地とを継ぐ唯一の関釜連絡船がある。此の遊廓も元は料理店の組合だつたが、酌婦を昇格さして娼妓としたもので、遊廓として一廓に集合したのは明治四十二年頃である。目下貸座敷は十五軒あつて、芸妓及娼妓は約百三十人居る。福岡県長崎県の女が多い、店は写真店で陰店は張つて無い。芸妓も娼妓も共に抱ヘてあつて、全部居稼ぎ制だ。遊興は時間制、又は通し花制で、廻しは取らない。茲の芸妓は殆んど二枚鑑札である。費用は甲(二枚鑑札)が一泊七円、乙(娼妓一枚)が一泊六円、半昼、又は半夜は五円で、台の物は別である。妓楼は、梅月、花家、日進楼、常磐、逹摩亨、梅の家、舞鶴楼、光月、栄福楼、米利堅楼、明月楼、七福楼、日の出、勢の家、贅沢楼、の十五軒。付近には、東莱温泉、海雲台温泉、松島、等の歓楽境がある。

釜山緑町遊廓

釜山緑町遊廓は釜山府緑町にあつて、溘仙洞牧島遊廓と相并立して居る廓で妓楼約二十軒娼妓約百二十人位居る様である、主に娼妓は九州方面の人が多く、遊興費制度等は牧島とほゞ同様だと見れば間違はない。

鎮海面遊廓

鎮海面遊廓は慶尚南道昌原郡鎮海面連雀町に在つて、鎮昌線鎮海駅より東南ヘ約十丁の個処に在る。鎮海は鎮守府の所在地で、海陸共に交通の要路である。料理店が貸座敷と成り、酌婦が娼妓と成つたものである事は、朝鮮の一般他廓と同一経路を過て来たものである。目下貸座敷は十二軒あつて、娼妓は七十人居る。此の七十人の内に鮮人が二十人居て、他は長崎県熊本県の女である。店は陰店を張つて居て、娼妓は全部居稼ぎ制で送り込みはやらぬ。廻しも取らない。一時間遊びは二円位、御定りは五円で午後六時頃から引け迄で、一泊は七円である。何れも台の物が含んで居る。茲の娼妓は全部二枚鑑札である。妓楼には、鹿島楼、浪花楼、酔月楼、金時楼、たまや、朝日支店、朝日本店、玉川楼、清川楼、一文字楼、鎮海楼、開進楼等がある。附近には、海軍記念塔、鎮海桜馬場等がある。

馬山寿町遊廓

馬山寿町遊廓は慶尚南道昌原郡馬山寿町に在つて、馬山線馬山駅がら南ヘ約八丁、乗合自動車の便もある。貸座敷は現在十軒あつて、娼妓は約五十人居るが、全部朝鮮の女計りである。経営者も朝鮮の人が多い。店には写真も無く、又陰店も張つて無い。登楼してから花魁が順次に顔を見せる事に成つて居て、其処で相方を定めるのだ、娼妓は全部居稼ぎ制で送り込みはやらない。遊興は通し花制で廻し花は取らない。此処の娼妓は全部一枚鑑札だ。費用は御定りが五円で台の物が附き、一泊も出来る。妓楼には、南鮮享、日鮮亨、吾妻亭、明月楼、寿楼、海月楼、南海楼、嶺南楼、醉仙亨、山月享等がある。附近には有名な馬山海水浴場がある。

馬山府万町遊廓

馬山府万町(よろずまち)遊廓は馬山府万町にあつて、主に朝鮮が女が多いが、日本人の娼妓も少しは居る。妓楼は約十二軒位あつて、娼妓は約四五十人位居る。遊興費や制度等は、前述の寿町と大差はないが内地人の娼妓は朝鮮人より一二円高いのが普通である。

馬山府元町遊廓

馬山府元町遊廓は馬山府元町にあつて、遊興費及制度等は右の万町とほゞ同様だと思ば良ろしい。

馬山府幸町遊廓

馬山府幸町遊廓は同じく馬山府幸町にあつてほゞ右と同様である。

吉野町遊廓

吉野町遊廓は慶尚南道統営郡統営面吉野町に在つて、馬山駅から陸上十七里あるが海路は馬山港から近い。朝鮮鉄道の自動車部の乗合自動車がある。当廓には貸座敷が十一軒あつて娼妓は七十人居る。内鮮人経営者が三人居り、鮮人娼妓が二十人居る。内地の女は主に長崎県大分県の女である。店は張店で、芸娼妓共に居稼き制である。遊興は通し花制で廻しは取らない、費用は一泊御定り芸娼妓(二枚鑑札)は六円、娼妓は五円、一時間遊びは芸娼妓一円、娼妓八十銭である。台の物は含んで居ない、娼楼には内地人経営のは米山楼、開花楼、清月楼、一福、豊後庵、喜久屋、松乃家、よからう、等であり鮮人経営の家は福与館、明月館、錦月楼等である。附近には鎮海、馬山等の古戦場があり、産物には、煎魚、海草等があつて、殊に煎魚は東洋第一である。

晋州面大河洞遊廓

晋州面大河洞遊廓は朝鮮慶尚南道晋州郡晋州面大河洞にあつて汽車は京釜線、三良津駅で朝鮮鉄道慶南線に乗換へ、終点の晋州で下車する、現在遊廓の貸座敷数は約十五軒位あつて、娼妓は約百人程居るが、重に朝鮮人多く内地人は比較的少ない様である。店は陰店制で、遊興は大阪式通し花制又は時間制で、廻しは一切取らない事になつて居る。御定りは五円で酒肴附一泊が可能である。芸妓も呼べる。一時間一円位である。又朝鮮芸妓も居るし娼妓の二枚鑑札の女も居る。

方魚里遊廓

方魚里遊廓は慶尚南道方魚里にあつて、妓楼三軒、娼妓約二十人位居る。他の確実な事は判明してゐない。

大邱八重垣町遊廓

大邱八重垣町遊廓は朝鮮慶尚北道大邱市八重垣町にあつて、汽車は京釜線大邱で下事する、大邱は慶尚北道第一の都邑であつて、慶東線の分岐点になつて居る、妓楼は十五軒娼妓約五十人位居て、店は全部写真制となつて居る。芸娼妓は全部居稼ぎ制で内地人及朝鮮人が半分位づゝであつて、時間制である。御定りは芸娼妓は六円、娼妓は五円位で台の物がつき、一泊が出来る。二枚鑑札が多く居るので特に芸妓を呼ぶ必要がない。

太田面遊廓

太田面遊廓は忠清南道太田郡太田面春日町一丁目に在つて、京釜線太田駅で下車すれば西北ヘ約五丁である。太田は交通の要路で遊廓も相当の色を示して居る。目下貸座敷が十軒あつて娼妓は五十二人居るが、中には鮮人の女が二十人、内地の女九州人が三十二人程居る、店は写真式で陰店は張つて無い。娼妓は居稼ぎ制で送り込みはやらない。遊興は通し花制で廻しは取らない。費用は御定り甲が七円、乙が六円で一泊が出来る。但し台の物は含んで居ない。鮮人の娼妓は此れより二三割方安い事に成つてゐる。此の他に短時間遊びもあつて二円位でも遊べる。娼楼には京末楼、新花月、長崎楼、築紫、花月楼、喜楽楼、天龍楼、いろは楼、酔月楼、敷島楼等がある。

金州相生町遊廓

金州相生町遊廓は朝鮮全羅北道全州相生町にあつて、汽車は京釜線太田駅で湖南線に乗換ヘ裡里駅で慶全北部線に乗換ヘ、全州駅ヘ下車するのである。現在妓楼約五軒、娼妓は五十人位居て、娼妓は内地人が半分朝鮮人半数位である。内地人は長崎熊本県人が多い。店は陰店制であつて、遊興は大阪式時間制である。御定りは芸娼妓七円、娼妓六円と言ふ事になつて居る。勿論酒に肴二品位は附く。

群山府新興洞遊廓

朝鮮忠清南道群山府新興洞にあつて、汽車は京釜線裡里駅で群山線に乗換ヘ、群山駅に下車する。忠清南道第一の都会で錦江の河口に当る港町である。現在妓楼は約六軒、娼妓は約六十人位居て、写真店である。遊興は時間制又は通し花制になつて居るから、廻しは取らない。二枚鑑札及一枚鑑札とあつて、二枚鑑札は六円、一枚は五円で酒肴附である。

群山府山手町遊廓

群山府山手町遊廓は群山府山手町にあつて妓楼及娼妓の数も新興洞と略同様で、遊興費及制度もほゞ大差はないと思つて宜しい。

仁川府敷島町遊廓

仁川府敷島町遊廓は朝鮮仁川府にあつて、鉄道は京釜線永豊浦線から仁川線ヘ乗換ヘ、仁川駅で下車する。西方に月尾島は長く小月尾島の尾を引いてゐるので、此の島の為に仁川港は至極波が静である。而しながら満潮の差が大きいので余り感服しない。貸座敷数は総計で約十軒、二百人位の娼妓が居て、大多数は内地人の娼妓多く、朝鮮の女も相当居る、店は全部写真制で、遊興は大阪式の通し花制と時間制であるから、絶対に廻しはない。御定りは一枚鑑札と二枚鑑札に依つて多少相違して居るが、一枚なら酒肴附一泊五円位で二枚なら六円若くは七円と言ふ事になつて居る。従つて特に芸娼妓の人用を感じない訳である。

木浦遊廓

木浦遊廓は朝鮮全羅南道木浦府桜町に在つて、湖南線木浦(もつぽ)駅で下車すれば西南ヘ約八丁の処である。木浦は黄海に面した港町で、貿易も仲々盛んな処で、町も非常に発展して居る。町の住民は朝鮮人が九分で、内地人が一分位の割合に成つて居る。此処の遊廓は大正三年に許可されたもので、貸座敷業者は全部で七軒あつて、内四軒が内地人の経営であり、三軒が朝鮮人の経営に成つて居る。娼妓は全部で七十八人居るが、内地の女は四十四人、朝鮮の女は三十四人居る。店は陰店式で写真制では無い。娼妓の揚げ方も居稼ぎ制で送り込み制では無い。遊興の方法も時間制で廻しは取らない。一泊の甲が十円、乙が七円、丙が五円で台の物が附いて来る。此れは内地人の相場であるが、朝鮮人の娼妓なら此の半額と見て差閊は無い。茲の娼妓は多く二枚鑑札であるから、三味線や唄位は唄ふ筈である遊楼は、一の谷、日ノ出、三橋楼、永春亭、玄海楼、明月楼等がある。

京城府弥生遊廓

京城府弥生遊廓は京幾道京城府弥生町に在つて、京釜線龍山駅で下車すれば約十二丁、市電は「弥生町人口」で下車すれば宜しい。京城は元王城の所在地で、総督府以下の各官衙、学校等があつて朝鮮の首府である。此の遊廓に好況時代には四十軒近くの貸座敷があつたのであるが。目下は不況の為めに二十軒に減つて終つた。娼妓は百五十人居る内に鮮人が二人で、あとは全部内地の女だ。中でも長崎の女が最も多い。店は写真式で陰店は張つて無い、娼妓は居稼ぎ制で送り込みはやらない。遊興に通し花制で廻しは取らない。此処は元来料理店が貸座敷に変化した処なので、娼妓でも芸妓の鑑札を持つて居る者が多い。従つて費用も娼妓と芸娼妓とが異つて来る勘定だ。御定り甲(芸娼妓)が七円で、乙(娼妓)が六円だが何れも台の物は含んで居ない。娼楼は、君の家、桃の家、喜楽楼、三芳楼、三幸楼、大黒楼、人船楼、松月楼、大黒楼支店、花月楼、○丸楼、常磐楼、高陽楼、白水楼支店、山遊楼、金波楼、一福楼、福井楼、白水楼、一富士楼等である。

京城府新地遊廓

京城府新地遊廓は京城府新地にあつて、市内電車は新地停留場で下車する。此処は京城一の廓で、弥生町の約七八倍もあつて、娼妓も約九百人位居る。内地の女は、長崎熊本福岡地方が多い、殊に内地人の娼妓が多く、朝鮮人は他に比して比較的少ない。店は全部写真制になつて居り、娼妓は居稼ぎで送り込みはやらない。遊興は時間で廻しは絶体にない、二枚鑑札の女の居る事は他と同様である。御定り一泊は芸娼妓七円。唯の娼妓は六円で酒肴附である。

兼二浦面遊廓

兼二浦面遊廓は黄海道黄州郡兼二浦面栄町に在つて、京義線黄海黄州駅から乗換ヘ兼二浦駅で下車すれば東北ヘ約十五丁、借切りの自動車でも賃金が駅から四十銭である。此処の遊廓は、大正七八年頃の好況時代には非常なもので、一時貸座敷が十八九軒もあり娼妓の数も百六七十名居たものであつたが、財界不況と共に其の数も減り、娼楼は十二軒内四軒は鮮人娼妓は百四十人居て、朝鮮の女も四五十人居る。内地の女は長崎県熊本県の女が多い。店は陰店を張つて居て、娼妓は全部居稼ぎ制である。遊興は通し花制で廻しは取らない。一枚鑑札の娼妓と、二枚鑑札の娼妓が居て、費用は御定り一泊が二枚鑑札で七円、一枚が五円である。台の物は含んで居ない。娼楼には、一楽楼、三玉楼、初音、房の家、金波楼、旭楼、勝の家、入船等がある。土地には三菱製鉄所がある。

鎮南浦碑石里遊廓

鎮南浦碑石里遊廓は平安南道鎮南浦碑石里柳町に在つて、平南線鎮南浦(ちんなんほ)駅から西南へ約十丁、乗合自動車の便がある。大同江の河口にあつて、海陸共に便利な処である。貸座敷は目下九軒あつて、娼妓は約七十人居る。店は写真制で芸娼妓は居稼ぎ制遊興は全部通し花制で廻しは取らない。費用は甲、七円五十銭、乙は六円で、甲は二枚鑑札の女が相方であり、乙は娼妓が相方である。何れも台の物が附かない。妓楼は、浪花楼、やなぎ楼、魚伊楼、近花楼、山陽楼、一六楼、千鳥楼、深川楼、翠月楼、の九楼。

平壌府賑町遊廓

平壌府賑町遊廓は平安南道平壌府賑町(にぎわいちょう)に在つて、京義線平壌駅で下車すれば東へ約三丁、駅から乗合自動車で黄金迄行けば賃五銭である。此処も元は料理店であつたが、酌婦の風紀を取締る必要上、明治四十二年に集娼制と成つて現在の所に移転したもので、二枚鑑札の女の居るのは料理店時代からの遺物である。目下貸座敷は五十五軒あつて内十五軒が内地人の経営であり、他の四十軒は全部朝鮮人の経営である。娼妓は内地人百五十人、朝鮮人が百三十人居て、内地人は重に長崎人が多い。店は写真式で陰店は張つて無い芸娼妓は全部居稼ぎ制で送り込みはやらない。遊興は通し花制で廻しは取らない。費用は甲(二枚鑑札)が六円で、乙(一枚鑑札)が五円で一泊が出来る。但し台の物は別勘定だ。娼楼には、美人、静、翠月、長崎、若松、思君、敷島、万福、藤乃、大船、朝日、東京、松ノ、迎月、真楽等がある。

元山陽地洞遊廓

元山陽地洞遊廓は咸鏡南道元山府陽地洞(ようちどう)にあつて、汽車は京元線元山(げんざん)駅へ下車する。妓楼は約八軒、娼妓は約八十人位居り朝鮮人半分内地人半分位となつて居る。「御定り」は一枚鑑札と二枚鑑札になつて居て、一枚鑑札は五円、二枚鑑札の芸娼妓は六円位となつて居る。酒肴付で一泊が出来る。遊興は廻し制度でなく、全部通し花制で、店は陰店を張つて居る。

咸興花咲町遊廓

咸興花咲町遊廓は朝鮮咸鏡南道咸鏡街花咲町(はなさきちょう)にあつて、汽車は京元線元山駅から咸鏡線に乗換へ、咸興駅で下車する。咸興は元山に次ぐ咸鏡南道の都邑で、南部にある西湖津は咽喉に当つて居る。現在貸座敷数は約十軒、娼妓は百二十人位居て、内地人と朝鮮人、と半々位である。店は陰店を張つて居り、遊興は時間制で通し花制であるから廻しはとらない。御定り一泊は芸妓、七円娼妓六円が相場で全部本部屋になつて居る。廻し部屋はない。酒肴は酒一本肴二附品である。鑑札には一枚と二枚鑑札とあつて、此の地では特に二枚と呼んで居る。

羅南面美吉町美輪之里遊廓

羅南面美吉町美輪之里遊廓は咸鏡北道羅南面美吉町(みよしちょう)に在つて、咸鏡線羅南駅で下車すれば西南約十八丁の処にある。乗合自動車及乗合馬車の便がある。明治四十一年に遊廓の許可地と成つたもので、其れ以前には二三の日本料理店があつて、其処で芸妓を抱へて居た事に起因するものである。現在は貸座敷が十二軒あつて、娼妓は約百二十人居る。内には内地人の娼妓が約六十人居り、朝鮮人の娼妓が約六十人居る。朝鮮人娼妓の服装及言語は、殆んど内地人の其れと大差無い事は会寧辺と同じである。中には勿論朝鮮服の娼妓も居る事は云ふ迄も無い。店の制度は陰店でも無ければ写真式でも無く、登楼して茶を飲んで居ると、娼妓が一人一人挨拶をし乍ら顔を見せて行く。其処で相方を撰定すると云ふ方式を採つて居る。娼妓は総て居稼ぎ制で送り込み制では無い。遊興は時間制で廻しは一切取らない。娼妓中には一枚鑑札者と二枚鑑札者と居て、二枚鑑札者の御定りが台附七円、一枚鑑札者は台附六円である。芸妓一時間の玉代が金一円宛である。妓楼は、富士見楼、光明楼、富貴楼、吹集、三州楼、安佐可楼、三七十楼、高正楼、大黒家、笑山楼、羅南館、平壌楼、等である。

清津星ヶ丘遊廓

清津星ヶ丘遊廓は咸鏡北道清津府(せいしんふ)北星町に在つて、咸鏡線清津駅で下車すれば東南へ約五六丁行つた海岸通りを南へをれた処である。乗合自動車を利用すれば、北星町入口で下車する。賃金は市内十銭均一である。清津は開港場であつて咸鏡北道第一の都会である。此の遊廓も元は料理店の組合であつたが、大正八年に現在の個処へ遊廓の許可が取れたので、直ちに茲へ移転して来たものである。従つて建築も設備も堂々たるもので、他の大都市の其れに優るとも決して劣るものでは無い。現在貸座敷は十四軒あり(内二軒は鮮人経営)娼妓は約百四十人(内鮮人三十人内地人は主に長崎県人百十人)居るが、尚最近に二軒程増加する意気込みである。店は陰店を張つて居て、娼妓は居稼ぎ制である。二枚鑑札の芸娼妓も多く居るが、此れも送り込みはやらない。遊興は全部通し花制で廻しは取らない。費用は芸娼妓が一夜七円で、娼妓は六円である。台の物は別勘定である。此の遊廓独特の鴨緑江節「津々の、海より深い私の思、主は知つてか知らいでか、高まつ山の月さえて、かりの音身に沁む秋の空」、付近には朱乙温泉があつて、汽車自動車の便もある、朝鮮八景の一としても有名である。娼楼には寿楼、常磐楼、余香楼、文化楼、祐多加楼、山遊楼、鳴門楼、栄楼、大盛楼、一鶴楼、花月楼、吉祥楼、野月楼、一福楼等である。

会寧面北新地

会寧面北新地は朝鮮咸鏡北道会寧面に在つて、清会線会寧駅で下車すれば南へ約四丁の処である。円タタ及人力車の便があつて、殊に人力車の賃金は安く、駅から遊廓の玄関に横着けさしても、車夫に拾銭も与へれば大悦びであると云ふ有様だ。此の遊廓は明治卅九年の、日露戦争直後に四軒の、日本料理店を開業して芸妓を置いた事に始まり、大正五年には剛載者が八軒にrt芸妓は畆診娼妓の内粡を含んで居たので、茲蓊座敷組1しi廓拓可地七1tのであ3瓢芸t1戔あて一1gj八(居る。、`一四拾人が内地が、他の四十t(は朝附がある。但し諮詢絢驟櫚の大半は輒l嚮ぷ居て、言語も殆んど内地人と大差無い迄に精通して居る。茲の遊廓は元来が芸妓町だつたので、娼妓にも二枚鑑札の女が大勢居る。店は陰店式で娼妓は居稼ぎ制である。送り込み制はやつて居ない。時間制で廻しは取らない。御定りは二枚鑑札の娼妓を呼べば六円、一枚鑑札の娼妓を呼べば五円と云ふ事に成つて居る。前者を甲と云ひ、後者を乙と呼んで居る。御定りには酒肴が付いて一泊が出来る仕組みである。豆満江節、国境警備の歌舞等が盛んである。妓楼は、一富士、平海、徳川、花月、吉野、万年、松葉、更科、亀鶴、菊水、九州、都、松月、酔月、等である。

会寧面三洞新地遊廓

会寧面三洞新地遊廓は朝鮮咸鏡北道会寧面三洞新地にあつて鉄道は京城発の京元線から更に咸鏡線南経由咸鏡線北部の会寧駅で下車する。支那吉林省との国境に近い長白山脈中にある小都会である。現在妓楼は五軒娼妓は三十人位居て、店は陰店制で、遊興は時間制又は通し花制で、一切廻しを取らぬ事になつて居る。遊興及其の他の制度は前記の三洞北新地とはゞ同様であると思へば宜しい。